2-1 ヘビィメタルと少年犯罪――メディアの取り上げ方

ブラックサバスが1970年にデビューして以来、へヴィメタルは少年犯罪を引き起こすとされてきた。

そして、そのヘビィメタルのせいで犯罪がおきたと訴えて、裁判になった例がいくつもある。しかし、裁判の判決が「ヘビィメタルに非がある」とされたことは一度もなく、ほとんどが「彼らが自殺した原因は麻薬や飲酒など、他である可能性が高く、音楽の効果によるものである可能性は考えられない」という結果だったのである。
 

それにも関わらずメディアは「ヘビィメタルを聞くと犯罪に走らせる」と報道し続けてきた。その最も代表的な事件がコロンバイン高校銃乱射事件である。

この事件はアメリカ合衆国コロラド州ジェファーソン郡のコロンバイン高校で1999年4月20日に発生した事件であり、トレンチコート・マフィアと自称する同校の生徒、エリック・ハリス(Eric Harris)とディラン・クレボルド(Dylan Klebold)が銃を乱射、12名の生徒および1名の教師を射殺し、両名は自殺した。重軽傷者は24名。学校における乱射事件としては、2007年4月16日にバージニア工科大学銃乱射事件が起きるまでアメリカ史上最悪であり、学校に対する攻撃としても二番目に大規模なものであった。
 

この事件の加害者、エリック・ハリスとディラン・クレボールドがマンソンの影響を受けていたとされたが、加害者自身の「マンソンのファンではない」との証言にもかかわらず、抗議集会が開かれたり、「マリリン・マンソンは、恐怖や憎悪、自殺や死を広めに来る」といった不条理な讒謗を受けた。とりわけキリスト教信者からの誹謗は強く、多くの保守派メディアはマンソンの社会的影響を追及した。
 

日本でも2007年5月に福島県会津若松市で高校3年生の少年(17)が母親を殺害、頭部を持って自首した事件で、日本のメディアがマンソンの悪影響を示唆した。
以下の文は事件当時のインターネットに掲示された記事である。

「この事件の加害者となった少年は当時17歳の会津若松市内の県立高校の少年であった。2007年5月15日午前1時30分頃アパート2階の和室で、当時17歳の少年が就寝中の当時47歳の母親の首を包丁で刺した。ほぼ即死状態で、周囲の人物は争った物音を聞いていない。その後少年は、母親の首と右腕の肩付近をのこぎりで切断し、右腕はスプレー缶で指先まで白い塗料で着色した。
 

 福島県会津若松市で高校3年生の少年(17)が母親を殺害、頭部を持って自首した事件で、少年の自宅からはホラー系のDVDなどが押収され、少年が「ホラー映画を見ている内に人を殺してみたくなった」と供述していることもわかった。さらに、少年は過激なロックスター「マリリン・マンソン」のDVDも見ていたという。

また、奇抜な衣装で知られる同グループだが、ボーカルのマリリン・マンソン(バンド名と同じ)の顔も、地肌が見えないぐらいに真っ白。今回の事件を起こした少年が、母親の右腕を切断し、スプレー缶で白い塗料を吹き付けていたことから、同グループの容姿が少年の行動に影響を与えたのではないか、という見方もある。

なお、週刊文春によると、少年が犯行後過ごしたネットカフェで鑑賞していた音楽DVDは、米国のヒップホップグループ「ビースティ・ボーイズ(Beastie Boys)」のもの。こちらについては、特に歌詞が問題視されるには至っていない。」(『J-CAST』2007-5-18. 2007年5月22日)
 

この事件をうけて当時のワイドショウで「マンソンを規制しろ」と言っているコメンテーターもいたが、その後、この少年はマンソンのファンではなく、事件後にたまたまネットカフェでマンソンのミュージックビデオを一曲だけ見ていただけと判明した。しかし、メディアはそのことに関してはあまり取り上げずに終わった。 

 


2-2 へビィメタルが及ぼす悪影響の考察


はたしてヘヴィメタルは本当に少年犯罪を引き起こすのだろうか?
時に音楽は普段の生活から引き離された、ヴァーチャルな世界を個人の中で体験を味わえる。

特にヘヴィメタルという恐怖や怒り・悲しみを煽るような音楽は、もっともヴァーチャルな世界を体験できるだろう。その非現実の中に浸り過ぎて、現実との境目がわからなくなってしまい犯罪を起こすのだろうか?『子どもたちと犯罪』において、青木信人は、次のように述べている。

「私たちは、子供達による残虐な殺傷事件が起きるたびに、ある種の「誤解」を一つの「常識」として、しばしば共有する。すなわち、犯罪の主体である子供達が、「現実」の生活から浮遊し、自分の殻に閉じこもって妄想や虚構の世界にのめり込んでしまったからこそ、現実と虚構の境界を見失い、犯罪という非日常的な行為へと飛躍そしてしまったのだ、と。」

「ヴァーチャルリアリティ(仮想現実)には、私たちの「リアル」(現実)へと向かう姿勢をリフレッシュさせる力さえ潜んでいるのであり、現実を生き生きと生きてる上でヴァーチャルリアリティ体験は、必ずしもマイナスに作用するとは限らない。とりわけ、子供にとって、ヴァーチャルリアリティ体験は、大人よりもはるかに重要な要素となる場合が多い。」(青木信人『子どもたちと犯罪』岩波書店、2006、p.95)

また、西垣通は『聖なるヴァーチャルリアリティ』の中で
「我々はヴァーチャルリアリティ体験を通して、日常慣れ親しんだ「リアル」を、一種の「距離」をもって眺めることができるようになる。これが大切なのである。日常世界に埋没しないこと。ただ「存続(subsister)」するのでなく、自分自身から抜け出して新しく「存在(exister)」するように努めること」(西垣通『聖なるヴァーチャルリアリティ』岩波書店2000 p.69)

と述べている。
つまり、こうした論者のいうように、ヴァーチャルの世界を体験することで犯罪をおこす可能性が低くなるとも考えることができるのだ。ヴァーチャルな体験は、実際の社会の中で生き生きと生きていく糧になるともいえるのである。
 

ヘヴィメタルの刺激的な音によって精神が高揚したり、陰鬱な曲によって鬱々とした気分になる、と一般的に同意が得られるであろう。アンソニー・ストーは音楽が人に与える影響について次のように述べている。

「音楽が、聴き手の気分を変えることがあるのは本当だ。しかし、音楽が憂鬱な気持ちをさらにひどくしたという話もときには聞くが、外からのいかなる刺激に対しても反応しなくなるほどの鬱状態でないかぎり、音楽がその人の気分を高揚させたり、少なくとも、何にも誰にも関心がなくなってしまうという鬱病特有の不毛な状態を和らげてくれることのほうが多い。人生は悲劇であると感じる方が、人生に無関心でいるよりましである」(アンソニー・ストー『音楽する精神』 白揚社 1994年p.46)

陰鬱な音楽が人の精神に影響を及ぼすとしても、必ずしも悪い影響を与えるとはいえないのである。
メディアが少年犯罪とヘヴィメタルを関連づけるような大きな事件、とくに近年の少年犯罪の大きな要因の一つとして次のような事があげられる。

「自尊心を奪われ、無気力の淵へと沈んでいく子どもたちの中には、自暴自棄的な感情を破壊衝動へと転化させ、過剰な暴力で他者へと襲い掛かかる事件が目立ってきた。その背景には、自尊感情を奪われ、個としての自立につまずく子どもたちの姿が見え隠れしていた。」(青木信人『子どもたちと犯罪』岩波出版社p.103)

ヘヴィメタルが「鬱病特有の不毛な状態を和らげてくれることのほうが多い。」のならば、犯罪防止にすらなっているではないか。また、ミュージシャンが普段は抑制されている自分の心の闇を代弁者として歌ってくれることで、その心の闇が軽減され、犯罪防止にも繋がる。
では、犯罪に走ってしまう現代の若者の心の闇とはどのようなものであろうか。間庭充幸は『現代犯罪の深層と文化』の中でこのように述べている。

「現代は犯罪の動機がモノ獲りや怨念、あるいは情痴といった明確な目的を持つものから、憂さ晴らしや快楽、あるいは自尊心や自己確認(自己確認)を求めるといった動因的次元のものに変わってきている」(『現代犯罪の深層と文化』著者 間庭充幸 世界思想社 1994年出版 p.56)

その代表的な例として、神戸連続児童殺傷事件があげられる。この事件は1997年に兵庫県神戸市で発生した連続殺人事件で加害者の犯行声明に書かれた仮名から別名「酒鬼薔薇事件」とも呼ばれる。この犯行声明の中の一部に以下のようなことが書かれていた。

「ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中だけ
でも実在の人間として認めて頂きたいのである。」
     
この文に当時、多くの若者が共感した。それは、罪を犯さないとしても、このような「透明感」を感じ、自身の無力さを感じ、自己嫌悪に陥り、自尊心の回復を求めており、社会の中での居場所を確保出来ない若者が大勢いるからである。
そんな若者の代弁者としてマンソンは「THE NOBODIES」という曲で、現代の若者の苦悩と社会の関係をうまく表現している。

 

「今日のオレは汚らしくて/素敵になりたいと思っている/わかっているさ/明日になればオレはただのゴミ
昨日のオレは汚らしくて/素敵になりたいと思ってた/今ならわかる/俺は永遠にゴミなんだ/
先日何人か子供たちが死んだ/オレ達は機械に油を注して/それから祈った/病的な信仰に取り憑かれてゲロゲロ吐いてたあんたは/その日の視聴率を見ておくべきだったな
名もないオレ達は/ひとかどの人物になりたがっている/オレたちが死んだら/みんなオレ達が何者かわかることだろう」

 

アリストテレスは『詩学』の中で、カタルシスとは「芸術などによる悲劇の目的をパトス(苦しみの感情)の浄化にあるとした。最も一般的な理解では、悲劇を見て涙をながしたり恐怖を味わったりすることで心の中のしこりを浄化するという意味」(アリストテレス『詩学』岩波出版 1997 p.32)としている。
若者達が抱えこんでいる不安や悩み、苦しみをミュージシャンが心の代弁者として歌うことで、若者達のフラストレーシャンはカタルシスされるのであり、自殺や犯罪にはらせるのではない。本当に問われるべきことはヘヴィメタルではなく、現実や社会そのものなのだ。

 

 

 


2-3 ヘヴィメタルとメディア――社会的なイメージを利用した責任転換
 

ヘヴィメタルは犯罪防止にすらなっている。ならば何故、事件の原因はヘヴィメタルと報道されるのか。そこには、社会的なイメージとしてのへヴィ・メタルが影響していると考えられる。マンソンはコロンバイン高校銃乱射事件を扱ったドキュメンタリー作品「ボウリング・フォー・コロンバイン」で、マイケル・ムーア監督のインタビューを受けている。

そのインタビューの中で、マンソンは「俺は恐怖のシンボルってことさ。皆が恐れるものの象徴なんだ。」と述べた上で、

「事件と同じ日、米軍がコソボで最大の爆撃を行っていた、そのことで大統領のせいで事件が起きたとは誰も言わない。大統領とバンドマンを比べたら、大統領の方がよっぽど影響力を持っている。何かに恐怖を抱かせて、それから逃れるために物を買わせる。米国経済の基盤は恐怖と消費の一大キャンペーンなんだ。
そして恐怖の原因を俺達ロックミュージシャンになすりつけるのが一番簡単で、分かりやすいんだ。」

と語っており、事件の原因をヘビィメタルにあるとするのが一番簡単で経済的という話はうなずける。

 

 

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